2x2...人と文鳥の小さな群れ

シルバ@blanccasseのための備忘録

命とか運命とか・続き

営巣中のツバメの巣が撤去され、生きたままの雛ごと捨てられていたという事件。私が感じたこと、考えたこと、まだまだ纏まっていないかもしれないけれど、続きである。思いっきり暗いので、希少価値的存在の定期巡回読者さまにはスルー推奨。すみません。。。

前回のエントリは・・・こちら

その後

その後。生き残った十三羽 のうち、飛行不能の一羽を除く十二羽は無事に放野されたようである。それについては良かったよね。むしろこれからが野生動物にとっては試練の連続だとしても。

でも、前回紹介した【 箱根&芦ノ湖の環境問題を考えるブログ 】は炎上の果てに閉鎖に追い込まれた。また【 野生動物救護の会 かながわ 】も理由不明ながら休止中。。。



私は。

私はね。全ての生き物が平等だとは思っていないし、弱肉強食が世界の掟であるとも思う。それは人間も含めての話だ。でも、それと、強者が強者の論理を必要以上に振りかざすことを許すかどうかとは、別問題だと考える。だから、今回の件で一番知りたいことは「自衛手段を行使して済む問題を、それで済まさなかった理由は何なのだ?」ということである。その後、色々とネットで調べるうちに、このホテルには毎年ツバメが営巣していたことを知った。未来を予測して行動することが出来るというのが、人間の人間たる所以だと思っていたのだがね。。。

また、私は現代の便利な生活を放棄出来ないが、だからといってこの事件に胸を痛めるのが偽善だとは思わない。他者の犠牲の上に命が存在するというのが、『生きている』ということの本質なのではないだろうか*1。そして、だからこそ、平等でなくとも、命はすべからく尊いはずで、だからこそ、他の命に想いを馳せることが肝要なはずなのだ。それを偽善と呼ぶのであれば、私は偽善者で構わない。これは批難を受ける考え方かもしれないが、私は、工務店が山に放してくれた方がまだしも良かったと思う。それなら少なくとも、他の命を活かすことだけは出来たのだから。それに。鳴き叫び、もがき騒ぐ雛たちを炎天下に放置したまま、その物音が聞こえていても誰一人として何もしなかったということの方が、怖い。問われて嘘を吐くほどの疚しさがありながら、目の前にあるものに何も感じないって・・・それほど麻痺してしまうような、何がそれまでにあったのだろうか。。。

『運命』なんて言葉は嫌いだし使いたくない。私自身に限って言わせて貰えば、自分が自分であること、自分でしかあれないことを運命、親、社会のせいにはしたことはない。というか、出来ない。そんなことをしたら、自分なんて到底やっていられないからである。けれど、今回の事件を引き起こした人たちと私、縁起ものとして巣立ちを見守られるツバメと殺された雛たちとの差異を、他に説明する言葉を持たない。一体、『運命』って何なんだろうか。

そして今日。

子どもの頃。近所の小鳥屋が大嫌いだった。狭くて暗くて汚くて臭くて。鳥の叫ぶ声が悲鳴のようで、とても幸せそうには見えなくて、可能な限り近寄らなかった。私は子どもで、どの子も助けられなかったから。ドリトル先生のように、みんな放してやりたかったのに。

文鳥を飼うようになって、ネットで検索した鳥専門店に行ってみた。しかし、そこは私の覚えている小鳥屋そのものだった。デパート屋上のペットショップも、変わっていなかった。とっくに大人になった私は、大人になったはずなのに、やっぱりどの子も助けられなかった。そして、ペットとして生まれた鳥が、最早野生には戻れないことだけは、知ってしまっていた。

私は文鳥たちを愛している。いや、文鳥に限らず、ゴキ○リとカトンボ以外の全ての生き物の存在が愛おしい*2。けれど、自分の手の伸ばせる範囲は、あまりにも小さい。自分自身と、子犬ちゃんとレティと朱華と。こんなに小さな群れでも、ちゃんと手を伸ばせているのかは分からない。第一、命としての存在が愛しくとも、そもそも種としてではなく個としての好き嫌いが多くて、愛せる範囲が極度に限定的であるという事実からして、神様の真似など論外だ。私に、全ての命を幸せにすることなんて、出来るはずもない。

それでも。我が家に来た子と売れ残って処分される子と、そして我が家よりもっと良い環境で暮らす子と劣悪な環境下で暮らす子と*3、どこでどう道が別れたのか、そんな分からないことを考えずにいられない時がある。私に出来るのは、ただ、自分の手の届く範囲で『可能な限り』を追求することだけだと分かっていても。

そして今日。よく行く文鳥サイトの掲示板に一羽の文鳥が亡くなったとの報告があった。病気の文鳥を抱えた飼い主さんと、ほんのささいな交流を持っただけの関係である。でも、朱華と同じ体重の小柄なその子と飼い主さんに、私は多大な感情移入をしていて、感傷だと言われようとも泣けて仕方なかった。

私が蚊を殺すのを躊躇わないように、私もいつか殺される。誰かや何かが手を下さなくとも、『時』に。『寿命』という名の私の命、そのものに。必ず。子犬ちゃんも、レティも朱華も。。。長いとか短いとか、意味だとか、そんなものは関係ない。だからこそ、例えそれが明日であったとしても、死ぬまで、精一杯、日々を過ごす。それが『生きる』ということ。それは頭では分かっている。分かっているくせに、考えずにいられない時があるのだ。

生きることに意味を追い求めずにいられないのは、人間だけだとどこかで読んだことがあるが、全く持って人間とは難儀な生き物である。その辺の道端に転がる石のように、あるがままに全てを受け入れて、ただ生きていけたらいいと心底願う。けれど、そう思うことが既に、難儀な人間であることに他ならない。どうしようもなく、私は人間だ。

・・・いつか、その時。その瞬間まではぎりぎりの抵抗をしたとしても。願わくば最期は。黙したまま、額を上げて、真っ直ぐ前を見据えて、終えたい。

関連エントリ

*1:それはベジタリアンでも肉食をしている者でも同じだ。私は生半なベジタリアンが大嫌いなのだが、それは植物も同じように命だということを失念しているからである。

*2:ゴキ○リとカトンボの次は人間。だが、ゴキ○リとカトンボが厭わしいことも含め、これは単なる好き嫌いの問題であるし、絶滅を願うこともない。

*3:どんな環境を良し悪しとするかは別問題。